“何故僧侶になったのか”をチェンライ在住のOさんから聞かれた。いままで節々で語ったし、一度宗教新聞のインタビューで答えたことやHPのプロフイールそしてもろもろの記事にも書いたつもりでした。ちょうどいい機会なので改めて「SUCHITOO(しょうこう)の僧侶(仏道)のきっかけ」を紹介させてください。
まず仏教の関心は50歳からです。それまでの人生に疑問と言うか燃えるものがなかったからです。大学からの交通経済学の研究活動を変えて、経済学から文化人類学を重視し、転換した中年期でした。インドで言う家住期です。そしてタイ人妻の国では最大の文化は、「仏教」でした。その哲学と心を知りたかったからです。数年間短期でタイ寺院に泊まり瞑想等の体験をしてきました。あるときは約200キロを遊行(プラツドン)したこともありました。55歳ですべての仕事をやめ縁のあったタイで著名なパクナム寺院に出家することを決めました。
帰国後は、何も知らない「日本仏教」のことを学ぶため立正大学に入学、その延長で日蓮宗の教師の資格を取るため菩提寺でお経や所作の勉強をさせてもらい、研修道場で仕上げの修行をして日本仏教の僧侶の入り口に立ちました。
高齢での得度は大変でしたが、第2の人生へのチャレンジで心身の健康を証明し、実現したかったからです。
タイ仏教と日本仏教の違いは、お釈迦さんの教え(解説・理解)は、まったく同じではないとの実感です。タイ仏教は、お釈迦さんの仏教に近く、日本は祖師・開祖の教義が強いです。そこのどこの部分に《惚れた》かと言えば、<慈悲><瞑想><戒律>でしょう。
「布教」は性にあっていません。日蓮宗(法華経)内では、<布教>が説かれていますが、その基礎となる人間的、学問的、技術的に優れ尊敬できる方にはまだ余りお目にかかっていません。しかしタイ仏教界では「行・学」に優れた方が多いです。そのひとりはワットパクナムの僧正ソムデットです(写真) 。
そのため修行後タイに戻り拠点として縁のあったタイ北部のチェンライにワットジープン(タイ日本寺院)を開堂し、日々学ばせてもらっています。
@Wat JapanのHPは、以下の通りです。
http://kawai.servebeer.com/~masahiro
http://marsk.html.xdomain.jp