日本で出家(2007年5月)した際の師僧(法真寺矢澤俊彦上人= 30世:松慶院日成)が2016年4月10日遷化(死亡)した。小生がタイに滞在中のことで連絡が誰からもなく帰国後長兄の留守電と住職の息子(副住職)からのメイルで知った。
*住職の葬儀は、大変なイベントだったようだ。
2006年入学した立正大学の2年目に「法要実習」があり、お経から所作・法要などを法要式の本や仏教の道具から教授してくれるのだが、全くわからず先生が来る30分前に行って葬儀(法要)式のできる特別教室の空気を味わい、先生(野口上人)が来ると収納庫から出したりしまったりする手伝いと直接触り名称等を学んだ。しかし授業ではお経はほとんど時間がなく教えてくれず、生徒は寺院の子弟たちなので多くは省略された。そのため菩提寺の門を叩き、やっと矢澤住職の許可を得て学校【学】と朝勤【行】を並行して学んでいった。
学校は主に夜間なので21時台に終わり帰宅、朝勤は朝6時半からのため5時起きで家からは約1時間かけて通った。これが週3回もあった。それから得度を勧められ、読経テスト、僧道林(1週間)、信行道場(35日)と修行に付き合ってくれた。最後の砦は信行道場で、死ぬ思いで終えた。その間師僧は道場の指導僧たちからの情報を得て間接的に支援してくれていたようだ。
師僧は、父親が50歳代後半で急死したため、サラリーマン(倒産した山一証券)を途中でやめ、僧侶になった。大学は慶応大学で学び、僧侶の世界に人生の途中で飛び込んだので苦労したようだ。しかし法要(式典等)に欠かせない『声明』においては、日蓮宗のなかではトップクラスの方でした。お経もずいぶん練習したのか素晴らしいいい声でした。ただ法話はどうも苦手だったようで、短く同じ事の話が多かった。それが62歳で父親と同じ心筋梗塞であっけなく亡くなった。予感があったのか一人息子に教師の資格を20歳で取らせ、大学を出して仕事についていたが数年前から後継者として育てていた。まだ20歳後半の若い住職だが寺院を続けていく事ができるのは、日本の一般的な子弟による後継制度だからでしょう。
師僧の遷化により小生と寺院の縁はなくなった。ただ菩提寺(長男が名義人)としての付き合いは残るだろう。
法要や葬儀(回忌)は、今後日本式の回忌、仏事を行うのだろうが、30代も続く古い寺院なので今後の舵取りが大変だ。
合掌。南無妙法蓮華経(3唱)
@タイで出家した際の「師僧=指導僧」は、現在(2016年)タイ仏教界の《法王》です。86歳ですが元気です。パクナム寺院の僧正(ソムデットプラマハー ラッチャマンカラーチャーン)。
@タイ日本寺院(Wat Japan)は、2013年1月開堂、ただし個人寺院。(HPをご覧ください)
↑稲付山法真寺、安全対策か朝は6時半過ぎに開門、夕方は16:00頃に閉門。