日本の教科書には「江戸時代は<鎖国政策>をとっていた」、と記述されている。しかしポルトガルとは交易を禁止しながらオランダとの交易(通商)を出島で行われていたし、朝鮮との通交(「人の往来だけ」、との説は疑問)は、対馬藩を通じて長年行われていました。それ以前(安土桃山時代)の交易は、<御朱印交易>と言われ東南アジアなどと正式に行われていました。又、14世紀(16世紀後半迄)の琉球王朝時代は<大航海時代>と言われアユタヤ(タイ)などへ琉球(沖縄)から東南アジアとの交易が中国の明王朝の海禁政策を補うための<中継貿易(朝貢交易)>が長年行われています。これも日本(当時の「琉球」は日本でなかったからか)の海外交易史に登場しない摩訶不思議です。
16世紀ポルトガルからの鉄砲の渡来やキリスト教の伝来、それ以外に17世紀伊達藩の通交の動きや他のヨーロッパやロシアなどとの交易史をはじめ江戸末期からの日本人移民の変遷も余り整理されていません。アメリカの黒船による『開国』までの間、江戸時代前後の海外交易の記録がきちんと整理され我々日本人の中に伝えられているのか疑問を感じています。
明治維新から145年を経た今《江戸文化》が見直されてきています。良いとこどりだけでなく事実関係を抑えておきたいものです。疑問点とその指摘は以下のようです。
・江戸時代の「鎖国」や中国の「海禁」政策の裏実態そして朝鮮との歴史的な交易をどう評価するのか。出島には、他の国の船舶も来たようだがその対応が未だ不明だ。
・対馬にきた朝鮮通信使たちは、どんな役割を持って対馬から江戸にアプローチしたのか。豊臣秀吉の侵略からの思いは如何にあったのだろうか。
・琉球や出島そして対馬などの交易記録からみて現在の日本に及ばした影響をどのように分析しているのか。薩摩藩からは琉球の品(泡盛等)の献上があった。
・九州には海外交易や文化受容の歴史が色濃くあるが、資料活用の相互連携や情報交換が取れているのだろうか。朝鮮や中国その他ヨーロッパ交易国の記録や見方からは欠落していないか。
・江戸時代に来日(1654年、長崎)した明の黄檗宗隠元和尚の招聘と文化の導入をどう評価するのか。
・対馬藩の生活基盤は、通交と交易と思える。壱岐・対馬・九州などとの流れも気になる。
以上の内容は、小生自身の研究課題であるが、ただ旅に出てそれも新しい人工的な観光地だけでは得られない歴史情報を繋ぎ合わせていけば、日本国内だけでなく日本と朝鮮、日本と中国をはじめ、日本と東南アジアとの歴史的交流にも新しい視点が加わることだろう。
“特に飛鳥時代頃から日本は「鎖国」では生きられなかっただろう。公式・非公式に関わらず島国日本では、多くの往来が近隣諸国とあった。其れを裏付けることは可能でしょう。中国や欧米列強に遅れた部分もあったでしょう。其れを認め整理すべき時代ではないのでしょうか。欧米の方が《アジアの研究》が進んでいます。”残念です。